精度と質感

こんにちは、増田です。

今年も1年の半分が終わりました。
少しづつ夏らしさが増しつつも、まだまだ梅雨が明ける気配はなさそうです。
ただ私は雨が好きなので、しばらくはこのままでもいいかな、と思っています。

雨の日の唯一の悩みは湿気です。
これによって、髪の毛と事務所の模型がうねりだします。
精度よく作られた模型達も素材は紙なので、反ったり剥がれたり、一溜まりもありません。

模型の精度が落ちると、そこから受ける質感の印象も随分と変わります。

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認知心理学では、人がある物質Aを見て「これはAだ」と知覚する時、そのヒントになるのは、
その物質のもつ肌理なのだといいます。
例えば本物の花と造花を見分ける時、微妙なツヤや凸凹や厚みを手掛かりに本物を判断しています。

建築にも、本物の石を使った壁材があれば、石を模した極薄のシートがあったりします。
正面から見ると同じに見えても、横から見るとその薄さが分かり、そこで初めて「シートだ」と知覚します。
土壁調の壁紙も、少し角がペロッと剥がれているだけで「土ではない」「薄い」という感覚を得ますよね。

この原理は、建築模型も同じです。
接合・ノリ付け・水平垂直が徹底して綺麗に作られた模型は、覗き込んでみると
「これは模型だ」という感覚を超越して、本当に建築の中に入ったような気分になります。

接合部に隙間があったり、壁紙がちょっと剥がれたり、糊がはみ出ていたりすると、
「紙だ」「ノリだ」と、一気に模型っぽさが出てきてしまいます。

製作の精度によって、紙が紙以上の質感を獲得する。

普段模型を綺麗に作ろうと努力するのは、お施主様への誠意の表しと同時に、
模型がどこまで実際の建築に近づけるか、通常の質感がどこまで異質になれるか、
ということへの挑戦でもあるような気がします。

増田

プラットホーム劇場

こんにちは、金沢です。

6月に入り、電車の定期を変えました。

今までは乗り換えなしを優先してたので、
事務所から少し遠い駅を利用していましたが、
梅雨入りのため徒歩1分の駅から乗り換え1回の経路へと変えました。

そうなると家から出て電車に乗るための駅も変わりまして、
今までと違う風景を見ながらの通勤は、
おそばせながら新生活気分になります。

ただ、以前に比べて電車を待つ時間が長い。
ほんの10分、されど10分。
取り敢えずベンチに座って、向かいのプラットホームをぼーっと眺めるしかない。
・・・個人的には意外と好きな時間ですw
プラットホームの居心地みたいなものが昔から好きなんですよね。

そんな僕の周りには、
ホームをスタスタ歩く人、
ガタンゴトンと通過する急行電車、
隣のベンチでいちゃつくカップル。

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舞台のように横長な場所で展開する、
通過と滞在が交錯し合って織り成す、
矛盾したリアルな風景。

そんなところに何か引かれているのかもしれないと思います。

では

所在なき空白

こんばんは。
原です。

暑くなってきましたね。
このまま梅雨へと寄り道しながら、夏までゆるりと蛇行運転ですよ。

さてさて、巷には新生活が始まって2ヶ月が経とうとしてる人たちがいると思いますが、
僕は春に新居へ引っ越しまして、今では友人たちと3人で共同生活です。

いわゆる“ルームシェア”ってやつですね。

どうですか?“ルームシェア”。経験ある方いらっしゃいますか?
シェアハウスとかカーシェアリングとかなんとか、“シェア”は最近は流行りのような傾向もありますが、昔からある行為ですよね。楽しい反面、苦労もあります。一人でいるときに比べたら格段に気を遣う機会が増えますからね。気になる人はかなりしんどいと思います。あと“一緒に何かをする”ことに価値を感じられないと、とてもじゃないけどやっていけないです。ある程度「気を遣わない」タイプの人が向いているかもしれません。多分。。。

シェア前提で物件を探すと、それに向いた部屋の少なさに気づきます。
個室の広さに差が出たり、脱衣所経由じゃないとトイレに入れなかったり、ある部屋だけ収納がなかったり←僕ココ 、お金を積めば幾らか出てきはするのですが、結局のところ、どこかでガマンしないと、自分の希望と物件の条件との折り合いがつかないんですね。。

暮らしていて感じるのは、間取りに対してかなり無理をしているような感じがする事です。
3DKに強引に暮らしているので仕方がないのですが、、
上手いこと互いをつないでくれるLの部分(不動産用語で言うところの)が無いのが、かなり窮屈な思いをしている原因ですね。現状、4帖程のDがL的に使われています。なかなかキツイものがありますねぇ。

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そもそもLって何ぞやと考えます。皆の言っているLivingとは一体全体何ぞやと?その存在はかなり曖昧で、フワフワしています。でもとっても大事な部分な気がする…。その価値はこのルームシェアを通して学べるかもしれません。

「Living(?)無しの生活」

自分の身体で実験です。

ミラノ紀行1

こんにちは。増田です。

長い長いミラノサローネ出張から帰ってきて、日々時差ぼけと戦いながらいつもの日常を過ごしています。

イタリアには約1ヶ月近く居て、設営や展示の合間にすこしづつ街を散策してきました。
ミラノの街は、サローネ会期中だからかそれともお国柄か、毎日がお祭り騒ぎのような雰囲気でした。
陽が長く夜9時過ぎまで外が明るいので、大人も子供も遅くまで遊んでいて、なんだか異様な光景でした。

今回僕は人生2度目の海外、そして初めてのヨーロッパでしたが、
日本とヨーロッパの都市の構成の違いには多く刺激を受けました。

古い町並みなので素材も構成も昔ながらで、街中に広場があるというのも日本にはあまり無いですし、
なにより建築がパラパラと集まって出来る日本の都市と違い、城廓や街路が先立って建築が出来るので、
スパッと石を削り出したように、綺麗な町並みが自然と出来上がっているのです。

外壁面が綺麗に揃っているので、大通りに夕日が差してきた時も、ズバッと奥まで綺麗に光が届きます。
日本だと影の多い所やよく陽の当たるところがガタガタと疎らになるのが普通ですね。
建物も石積みで壁の厚い重厚な物が一般的なので、軽やかな日本の建築とは印象が全然違います。

日本とは全く違う美の感覚に出会ったような気がします。

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私たちが建築を設計する際に「良いか悪いか」を判断する時、その根拠は大抵、
今ままで受けて来た建築教育や長年の内に身につけた経験に基づいています。
その一方で、建築とはまだ無縁だった幼い頃の記憶や体験に結びついている心象もあります。

手に染み付いた実家の玄関の取っ手の微妙な曲線の感覚、事ある毎に家族で記念撮影をした庭の木、
ワックスの剥がれかかった階段のオーク材の柔らかな艶、怖いけど神聖な感じがした薄暗がりの部屋の窓。

そこには何一つ特別なものはなくて、どれもが極自然にそこにあって、でもだからこそ、
あの階段や木が、私の中の美しい階段や木というものの典型や原点として、
いまも判断の基軸になっているのだと思います。

そしてそういうモノが日本的に作られているから、
私達は自然に日本的な感覚を体得して基軸にしているのでしょうね。
良いと思う物は大抵、どこかに懐かしさの様な感覚を孕んでいるのかもしれません。

今回イタリアで感じた美しさの感覚は、まさに建築の専門的知識として新しいだけでなく、
そういった幼い頃の記憶の中でも一度も体験した事の無い、懐かしさの無い、
まったく新しい感覚のように思えました。

この刺激が、自分の善し悪しの感覚をどれほど揺らがしていくのか、楽しみであり、怖いところでもあります。

増田

コンクリートブロックは住宅の夢を見るか

こんにちは、金沢です。

休日の地元にて地層のようなコンクリートブロック達を発見しました。

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つたない記憶をたどれば、
確かここにはいくつかの住宅があったけど、
遊歩道政策により追い出されたような・・・気がします。

でも、敷地境界線上にあるがゆえに取り残されたこやつらは、
今でも住宅だという夢を見続けているようです。

コンクリートブロックが夢から覚めて、
また住宅になる日は来るのでしょうか?
くるんでしょうね、そろそろ。

では

金沢

春眠暁を覚えてくれ

こんばんは。
原です。

ブログ更新も久しぶりになってしまい、楽しみにしている方々には申し訳ないです。

この設計事務所に来て1年が過ぎました。

できるようになった事が多くあるのは、もちろん嬉しい限りですが、
できたはずなのにできなかった事に対する反省が、ぐるぐる頭を巡っているのもまた事実です。
しかしながら、学生時代みたいにいちいち引きずりまくって、引きこもっている時間的な余裕は無いので、これからもめげずに頑張りたい所存です。

さてさて、桜も咲いて、いよいよ本格的に春ですが、私は春が苦手でして、、
というのも、フィジカル的にもメンタル的にもなかなか自身のコントロールが効かなくなるからです。
変に陽気になったり、陰鬱になったり、柄にもない事をやり始めようとか考えちゃったり、、とにかく平常運転がしづらい。
普通の一日にしたい筈なのに、毎日がハレのようで、逆に疲れるこの感じ…。

特別は、ありふれていないからこそ特別ですからね、、

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何でもない  繰り返されるこの春を  あなたはいかがお過ごしか?

ではまた

素材と空気感

こんにちは。増田です。

最近は通常の設計活動の傍ら、
4月に開催の世界最大の国際家具展覧会「ミラノサローネ」でのインスタレーションのために、
慌ただしく動いております。

つい先日、その制作をお願いしている「広松木工」さんの工場へ1週間ほど出張へ行きました。

福岡県の大川という町にある家具屋さんなのですが、
スッとした美しい佇まいの中に、どこか懐かしさや愛らしさをもった家具を作っています。
今回の展示はまさに、その繊細な技術や圧倒的な木の知識、家具への愛、すべてを頂いて出来ています。

東京生まれ・東京育ち・事務所一沈黙の多い自分が、血気盛んな九州へ出張なんてと思いましたが、
福岡生まれの人というのはとても大らかで、毎日工場を見学させてもらったり、
毎晩尋常ではない量の美味しいご飯とお酒をご馳走になって、とても充実していました。

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面白かったのは、毎日違う人と話すのに、皆同じ事を話すことでした。
中でも印象的だったのは「家具から建築を作ってみたい」ということ。

建築は家具を納めるための箱ではないことを、
家具は家具だけでは成立しないことを、強く意識させられたような気がします。
そして単にレイアウトの話でなく、素材まで遡る話のように思いました。

「木を(自然素材を)使う=ぬくもりがあってやさしい」
もはや無批判に直結してしまうぐらい自然なイメージですが、これは本当にそうなのでしょうか。
木を使えばなんとでもなるのか。いやきっとそうではない筈で。

私は、素材そのものが暖かさや懐かしさを帯びていたり詩的であるわけではないと時々思います。
その点で、広松木工さんの家具に感銘を受けるのは、
やはり素材が的確かつ感覚的に用いられているからです。

ある特定の状況の中で、
その構成でしか、そのように用いることでしか作れない状況に特定の素材が置かれた時、
素材は初めて特別で詩的な意味を放ち輝き始めるのだ、と教えられている気がします。

家具の素材、素材と素材の接合部、家具の構成、家具と壁の関係、壁の素材、壁と床と天井の接合、
部屋と部屋の構成、建築全体の構成、建築が置かれる敷地環境。
すべての細部が全体の中で意味の繋がりを持った時、そこには「家具と建築」という呼び分けは不要かもしれません。

そんな緊張関係をもった状況をつくるには、まだまだ経験が足りないなと思う福岡の酔いの夜でした。

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目的と手段と愛着

こんにちわ、金沢です。

通勤中の相棒であるipod nanoとの付き合いが、
ついに10年目に突入しそうです。

高校に上がり、初めてのバイトをし、初任給での買い物でした。

憂鬱な通学時間も、好きな音楽が聴ければ一日の活力を蓄える時間となりました。

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ただ考えてみると、好きな音楽が僕を元気にしてくれているのであって、
別にこのipod nanoが元気にしてくれているわけでないのですが・・・
いったら、好きな音楽の入れ物でしかない・・・
それでいて10年前のものらしく2GBという容量の少なさ・・・

それでも、聞く音楽は年齢とともに変わっていくなかで、
こやつだけはいつも変わらずにポッケの中で、音楽と僕を紡ぎ続けてくれます。

音楽を聴くという目的の手段のものでしかなかったけど、
その目的よりも大事なものに生まれ変わるような、
そんな期待をしつつ10年目を迎えたいと思います。

今日は黄色い猿を聴きながら帰ろう。

金沢

あんさん、ニッポン人

こんばんは。原です。

自分が日本人であることを意識する時が、普通に生活している中で、果たしてどれくらいあるだろう?

ある海外小説を読み終え、多国籍な物語の有り様に思いを馳せていたら、そんな疑問が湧きました。
国内に居るうちは、そんな状況幾らも無いなと思っていたのですが、案外そうでもない事に気づきます。

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電車で乗り合わせる人は大概、ハングル、繁体字、簡体字の表示されたスマホをいじってますし、街で飛び交っている言葉、看板に表示されている文字も日本語とは限らない場合が多いです。(住んでいる場所が場所だけに、というのもあるのですが…)
周りを見れば見るほど、東京は日本の一部というより、アジアの一部といった印象が強いですね。

その他にも、言語の違いだけでなく、肌の色、骨格の違いが、その人が日本人でないこと、自分が日本人であることを自覚させてきます。

「他人と比べたら、どうやら自分は日本人らしい。」

この言い方、何だか引っかかるんですよね…。変な感じがします。軸が無いような、中心が無いような。
比べるでなし、もっと内発的、自発的な理由があってもいいような気がするのですが…。
比較対象がいないと僕らは“日本人”を保てないのでしょうか?

ある先生は「辺境人」と日本人の事を言い表しましたが、この表現に近い力が働いているように感じます。

何だかモヤモヤ、スッキリしない。
こういうの、根が深いんですよね…。
また変な引っ掛かりをこさえてしまった。
帰ってはよ寝よう。

ブログ

こんにちは、増田です。

新年あけましておめでとうございます。
本年も、篠崎弘之建築設計事務所、そしてスタッフブログ共々、よろしくお願いいたします。

このブログも開始からもうすぐ1年が経ちます。
「文章を書く」という行為は、当たり前にできるようで、意識するととても難しいものでした。

自分が良いなと思う風景や考えを正確に伝えたい時、
どんな言葉を選び、どんな順番で並べ、どれだけ余白をつくるか、抽象か具象か、すごく悩みます。

反対に、正確な言葉選びをするために、細部まで風景を注視する癖がついてきたような気がします。

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まだ小学生だった頃、国語辞典をパラパラと捲って、知らない言葉に出会った時、
なんだか新しい風景に一歩踏み出したような感覚になったのを今でも覚えています。

風景が先にあるのか、言葉が先にあるのか、分からなくなってしまうような不思議な感覚でした。

表現したい風景が明確であることで、自ずと言葉が導き出されたり、
逆に色んな言葉を知っていることで、表現できる風景の選択肢が広がったり、
その間を行ったり来たりしながら一つの文章に収斂させていく様は、
まさに建築を設計しているのと同じ感覚に思えます。

設計の練習だと思いつつ、
今年も一字一字を大切に、ブログを更新していきます。

増田

年末年始の台所

こんにちは、金沢です。

今年もあとわずか、毎年のことながら1年は早いです。
今年の反省も踏まえつつ、来年も精進していきたいと思います。

で、年末年始。
親戚や友人などの家に行く、逆に家に招くことが多い時期でもあります。
その時にみんなで囲み食べる料理は、なぜだか格段においしい気がします。

そんな料理をつくるキッチン。
この時期だと親戚の方と一緒にキッチンを使ったりと、コミュニケーションの場にもなりますよね。

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料理だけでなく、会話を生む要因になるキッチンって考え方も大事な気がします。

それでは、みなさま良いお年を。

金沢

セイコウトウテイ

こんばんは、原です。

寒さが新年へと鋭角のイメージで突き抜けて行きそうな今日このごろ。皆様いかがお過ごしでしょうか?

たとえ北から南へ住む場所を変えたからと言って、寒いものは寒く、北風さんがエッジを効かせた大気の流れで、情け容赦なく僕をチクチクしていきます。痛い、、痛いよ北風さん!

誰かが誤って体内に埋め込んだであろう半端な冬眠信号が蠱惑的にやさしく明滅するなか、
明日もきっと起きにくい朝を迎えます。

もりもり洗濯物の詰まったプラスチックの籠
机上に積まれた本の山々

それらをあさっての方向に空目して、玄関を出るのです。
やるべきことをやるために。

流氷

新年を気持ち良く…。新年だけでも気持ち良く…。

都市のイメージ

こんにちは、増田です。

久々の更新になってしまいました。
バタバタと忙しくしている間に、あっという間に12月です。

クリスマスが近いこともあり、表参道では毎晩イルミネーションの試点灯が行われています。
ピカピカの並木道はやはり綺麗です。

そういえば表参道の通りには、看板の明かりがとても少ないんですよね。
だからイルミネーションも、尚更キレイに見えるのでしょうか。
街としても、中の様子が分かるショーウィンドウがたくさんあるので、看板はあまり必要なさそうです。

表参道と比べると、隣町の渋谷はものすごい看板の量です。

看板といえば、景観に悪いとか、装飾的とか、商業的とか、
ネガティブなイメージを持たれることが多い気がします。

しかし渋谷という街では、その看板が「渋谷らしさ」を生む重要な要素であるような気がしています。

しぶや

建築が数十年という長い期間で残るのに比べ、看板は数日、早ければ数時間で張り替えられます。
街中を埋め尽くし、次々に張り替えられ、どんどん風景を変えていく看板。
炭酸水の広告だったところに、翌日は芸能人が貼られる、という脈絡の無さ。

そんな光景はネガティブというよりむしろ、
エネルギッシュさ、あらゆる物事や活動を受け入れる懐の深さなど、
建築だけでは作れない魅力や表情を生んでいるような気がします。

普段ネガティブに捉えてしまっている街の要素が、
実はその街の魅力や「らしさ」をつくっている重要な存在になっているのかもしれません。

そんな風にいつも過ごしている街を見直してみると、また違った風景に感じるかもしれませんね。

増田

基軸を変えてみること

こんにちわ、金沢です。

先日電車に乗ってると、
GAPの広告で電車が埋め尽くされていました。

Dress Normalというフレーズや見やすいレイアウト。
GAPのファッション基軸というコンセプトをかっこよく表現している広告群。

その中にblack is a colorというフレーズを発見しました。

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黒いものを思い浮かべるとスーツやインクなどある種のノーマル、基軸となっているものが大半なことに気づきます。
色彩表でも独立軸の頂点に存在しますし、やはり黒は色としても実用性としても基軸と言えそうです。

けど黒も色の1つ、その黒を見直すと訴えるこの広告。

基軸を見直すことは、全体を見直すこと。
基軸を変えれば、全体が変わる。

そんなGAPの野心が見えるような気がします。

自分も建築の基軸を見直してみることにします。

・・・建築の基軸ってなんなんですかね?
そこからかもしれません。

では、また

装飾

こんにちは、飯田です。

肌寒い季節になりましたね。
衣替えをしていると、模様の入った服がいくつかでてきました。
幾何学模様やノルディック模様など装飾は個性を引き立ててくれます。

近所の建物にもバルコニーの手摺や門などに装飾がみられます。
以前にアンティークが流行り、最近ではインテリアにもよく見かけます。

よく見ると装飾は幾何学的に組み合わされ、自然が表現されてます。
現代では装飾を様式として取り入れるのを見かけますが、やはり形にも意味があったようです。

例えばヨーロッパで見た雨を落とす樋は竜の彫刻になっていて、竜の口から雨水を流していました。
その彫刻の正体は大量に水をふくむことのできるガルグイユという竜だそうです。

世界三大巨匠の一人、ル・コルビュジェも雨樋を抽象化し、大きなオブジェクトとして外観で見せています。
しまいには雨樋をプールの滑り台にするほどです。
現代建築では雨樋を隠すよう工夫するところ逆に強調しているという点で、
ガルグイユの系譜を意識していたのかもしれません。

模様は違えど装飾は日本建築にも見られます。例えば懸魚(げぎょ)があります。
屋根の妻面に付けられる魚の尾びれを見立てた装飾です。
これは火事が起きないことを願って付けられているそうです。
この命名と彫刻的なあしらいに日本人の粋を感じます。

そんなことを考えていると、日々目にする装飾が楽しくなりそうです。

soshoku

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