ミラノ紀行1
こんにちは。増田です。
長い長いミラノサローネ出張から帰ってきて、日々時差ぼけと戦いながらいつもの日常を過ごしています。
イタリアには約1ヶ月近く居て、設営や展示の合間にすこしづつ街を散策してきました。
ミラノの街は、サローネ会期中だからかそれともお国柄か、毎日がお祭り騒ぎのような雰囲気でした。
陽が長く夜9時過ぎまで外が明るいので、大人も子供も遅くまで遊んでいて、なんだか異様な光景でした。
今回僕は人生2度目の海外、そして初めてのヨーロッパでしたが、
日本とヨーロッパの都市の構成の違いには多く刺激を受けました。
古い町並みなので素材も構成も昔ながらで、街中に広場があるというのも日本にはあまり無いですし、
なにより建築がパラパラと集まって出来る日本の都市と違い、城廓や街路が先立って建築が出来るので、
スパッと石を削り出したように、綺麗な町並みが自然と出来上がっているのです。
外壁面が綺麗に揃っているので、大通りに夕日が差してきた時も、ズバッと奥まで綺麗に光が届きます。
日本だと影の多い所やよく陽の当たるところがガタガタと疎らになるのが普通ですね。
建物も石積みで壁の厚い重厚な物が一般的なので、軽やかな日本の建築とは印象が全然違います。
日本とは全く違う美の感覚に出会ったような気がします。
私たちが建築を設計する際に「良いか悪いか」を判断する時、その根拠は大抵、
今ままで受けて来た建築教育や長年の内に身につけた経験に基づいています。
その一方で、建築とはまだ無縁だった幼い頃の記憶や体験に結びついている心象もあります。
手に染み付いた実家の玄関の取っ手の微妙な曲線の感覚、事ある毎に家族で記念撮影をした庭の木、
ワックスの剥がれかかった階段のオーク材の柔らかな艶、怖いけど神聖な感じがした薄暗がりの部屋の窓。
そこには何一つ特別なものはなくて、どれもが極自然にそこにあって、でもだからこそ、
あの階段や木が、私の中の美しい階段や木というものの典型や原点として、
いまも判断の基軸になっているのだと思います。
そしてそういうモノが日本的に作られているから、
私達は自然に日本的な感覚を体得して基軸にしているのでしょうね。
良いと思う物は大抵、どこかに懐かしさの様な感覚を孕んでいるのかもしれません。
今回イタリアで感じた美しさの感覚は、まさに建築の専門的知識として新しいだけでなく、
そういった幼い頃の記憶の中でも一度も体験した事の無い、懐かしさの無い、
まったく新しい感覚のように思えました。
この刺激が、自分の善し悪しの感覚をどれほど揺らがしていくのか、楽しみであり、怖いところでもあります。
増田